いつもブログを書くときは公開の場であることを意識している。
だから『僕』とか『俺』という言葉は使わない。
素の自分とは違う自分になっている。
だから生身の僕を知っている人からは『普段と違うよね』ということになる。
それをしないと僕の中で折り合いがつかない。
でも今回は素のままで書く気分だから僕でいいか。
ブログと言うやつは僕が感じたことを勝手に公開しているだけだ。
見に来てくれる人も自分から見に来ている。
僕が誰かに押し付けたりするものじゃない。
何の仕切りもなく公開しているのだから、僕の中に一定の線引きがないとぐずぐずになってしまいそうで怖い。
だって見て読んだ人は何かしらの印象を持つんだから。
そしてその印象を持って、紹介した店に行くかも知れないんだから。
美味しいという感覚は個々のもの。
『これは誰が食べても絶対に美味しい』などと言うものはないと思っている。
感じ方も違うはず。
だから言葉を尽くさないといけない。
どんなに言葉を選んでも、表現を考えても、きっと伝え切れてはいないでしょう。
僕の表現力の問題もあるし、読み手との感性の違いもある。
伝え切れていないだろうとは思うけど、それを理由に伝える努力を怠るわけにはいかない。
ワイン評論を読むと『濡れた下草の香り』とか『枯れた杉の木の皮の香り』なんていう言葉が出てくる。これらの言葉を使うのはは格好をつけているわけじゃなくて、ワイン好きの間で通じる記号だから。
ラトゥール82年の香りはラトゥール82年のもので、決して杏の香りや杉の香りではない。でも飲んでない人に伝えるためには、共通認識を得られる記号としての言葉に置き換える必要がある。『自分の言葉』を使うのではなく、『共通認識』の下にある言葉を使わないと出来るだけ正確に伝えようとしても不可能だ。
普通の人が読んでも無味乾燥な詰まらない評論でも、記号の意味を知っている人にとっては大変よく分かる文章なんだ。
『共通認識』のある記号としての言葉を使って表現するというのは、化学式を使って内容を伝えるようなものだ。だから読んで無味乾燥な印象を受けないようにするためには自分の言葉を使うしかない。そうすると正確に伝わるかどうか怪しくなってしまう。
それでも僕は自分の言葉を選択した。
その代わり、なんとかうまく伝わるように言葉を多く使うことにした。
僕のブログの文章が長いのはこのため。
多くの言葉を使わなくても伝えることができる人もいるだろうが、残念なことに僕はそうじゃない。
僕には出来ない。
人は出来ることしか出来ない。
出来ないことは出来ない。
だから出来ることを一つでも増やすようにしていかなけりゃいけない。
僕の知っている料理人で、本当に天才だと思える人が少なくとも1人いる。
この人は1日1組しか客を取らない。
僕が行っていた頃は3組まで受け付けていた。
でもこの人の考える『もてなし』を実現するためには1日1組しか対応出来ないと考え、そんな営業形態にしてしまった。これはもう商売じゃない。自分の考える『もてなし』を追求するための自己実現の場になってしまっている。
料理はコースしかない。
店に予約を入れるところから始まり、身支度をし、期待を膨らませて来店し、コースとして組み上げられた全ての皿を味わって、家路に就くことで完成する料理。
まるで茶道で催される茶事のようだ。
一皿一皿料理人の説明が付く。
その説明は料理法にまで及ぶが、この人は説明時間まで考慮して料理を作っている。
説明が終わる頃に余熱が食材に丁度好く入るように仕上げてテーブルに運んでくる。
だから説明が終わるのを待ちきれずに食べ始めてしまうと、この人曰く『調理途中』のものを食べてしまうことになる。
レシピで書くとニンニクの微塵切りとしか書けないが、料理によって1ミリ角の正六面体にしようとするときと3ミリ角にしようとするときがある。時には微塵切り炒めではなく、灰焼きにしたものを3回湯でこぼしてペーストにして使うこともある。
野菜の切り口の細胞を極力潰さないで切るときと、あえて潰して切るときがある。
料理人とは加工業者だと言い切る。
素材の持つ味わいを、素材そのままで食べるときよりも引き出すための加工をするのが料理人。この皿にこの素材を使うのは何のためなのかを突き詰めて切り方や火の入れ方を変える。
こういう書き方をすると、そんな理屈っぽい料理が旨いものかと感じる人は多いだろうな。
そう思うからこの店のことはレポートにしていない。
だって上手く伝わる自信がないもんね。
辛口批評で超有名な人のこの店のレポートはボロカスだった。
ワインが選べない。
イベリコ豚のローストは半生。
シェフがいないと予約も受け付けない使い勝手の悪い店。
評判倒れの店という評価だった。
僕はこの評価を読んで、この辛口批評の人とは感性が違うのだなと思った。
従ってこの辛口批評の人のレストラン評価は、今後あまり僕の参考にはならないと思った。
それは『この辛口さんは味が分からない』などということではない。あくまでも僕とは違うところに感性が反応する人なんだということ。良い悪い、分かる分からないの問題じゃない。この人と一緒に食事をしても楽しめると思うけど、レストランを見つめる視点が僕とは違う。
だから参考にならないのじゃないかと思ったのだ。
この料理人はワインを単体で提供しようとしていない。
あくまでも料理の一環として捉えている。
料理の皿から立ち上る香り、口に入れたときに鼻に抜ける香り、添えられたパンからの香り、そしてワインを飲んだときの香り。それぞれを独立させることなく、一体としてメニューを組んでいる。だから皿が変わると小さなパンがまた出てくる。そしてさっきのパンと今度のパンは形は同じでも中身が違ったりする。皿によって組み合わせる香りを変えるためだ。
ワインを軽視しているのではなく、料理人としてはあくまでも素材の1つとしか捉えていない。高いワインを頼まれて利益が上がるよりも、料理にあった味と香りのワインを飲んでもらいたいと考えている。
この料理人は肉のローストは芳ばしい香りが付けばいいので表面だけ強火で焼き固めるのが良いと思っている。赤身の部分は脂肪が融解するギリギリの温度でしか火を通さない。確かに半生だが、それがこの料理人の調理なんだな。
それにそのような肉は単体で出ることはないはず。必ず何か温かいものと一緒に皿に乗っている。その温かいものが卵だったりリゾットだったりするのだが、それらと一緒に一定の時間を経過すると最終的に口に入った時に最も香りの立つ温度になるように作ってある。
説明を待ちきれずに食べると調理過程のままだというのはこう言うこと。
この料理人の料理はまるで茶事のようだと書いたけど、茶事ではもてなす側の亭主が一切を仕切る。招待した人に何を感じてもらおうとするのか、そのためにどのような食事を準備するのか。招待する人の好みはどのようなものなのか。その好みに合わせるのか、自分が出来る限りの最高のことをするのか。
この料理人は初めての客でも予約の電話での会話を通して客を知ろうとする。
そんなことだけで知れるはずもないのだが、大切なのはその姿勢だ。
若い客と年配の客、食べ慣れていそうな客とぎこちない客。
それぞれの客を想像しながら料理の準備をする。
だからキャンセル待ちは受けるけど、非常に困るのだそうだ。キャンセルになるのは事情があるのだろうから仕方がない。でもキャンセルした客のことを思って準備した料理を、全くの別人に出して受け入れてくれるかどうかは分からない。それではおもてなしにはならない。
そんな姿勢で予約を受けているのだから、シェフがいないとダメなのだ。
他の人に任せるわけにはいかない。
なんと堅いレストランだと思うかもしれないけど、これこそがこの料理人の持ち味。
持ち得る限りの技量と感性を働かせて客をもてなす。
客は料理人の作り上げた世界に招き入れられる。
そんなレストランだから、客が自分で食べたいものを決めるアラカルトというものはない。
レストランとしては風変わりだよ。
100%お客様のご要望を叶えますと言う店もあるけど、その店の料理人は主人である客の下僕になることが出来るということでもある。この店では、主人はあくまでも料理人で、主人の作り上げた世界に招待されるのが客である我々となる。
そして主人の世界が客に受け入れられないこともありえるわけだ。
僕にとっては素晴らしい場所だった。
死ぬ前に何が食べたいと聞かれたら、この人が一度作ったことがあるほろほろ鳥のブローデッドと答えるだろう。
あのスープを口に含んだときには絶句してしまった。
それまで聞いていた料理の説明など全て吹っ飛んだ。
この液体の中にはキジがいる。
本当にそう思えた。帰りの電車の中でいつまでもブローデッドの話をするので、カミさんは堪えきれずに笑っていたっけ。
でもその料理はもう食べられない。この人は同じコースは2度と組まない。
それはこの人の『もてなし』の核には提案ということがあるから。
たとえて言えば、ひとつの食材には100通りの調理があり、100通りの組合せがある。普通の人がまだ出会っていないものを提案したい。一緒に食べるパンによってスープの塩梅は変わらなければいけない。組み合わせるものが違うなら、いつも同じ塩加減で良いわけがない。
これは客を飽きさせないための工夫などというものじゃない。
その素材を流れの中で如何に美味しく食べてもらうか、それを考え抜いて初めて出てくること。
その姿勢を良しとするかどうかは客側に選択権がある。
良しとする人にとっては非常に居心地の良いレストランになるし、そうでない人にとっては鼻につく場所になる。
鼻につく人は行かなくてもいいんだ。
いつもと変わらぬ味の美味しいスープが飲みたいときには、この人の店じゃない場所を選べばいい。好みと違う場所や居心地の悪い場所にあえて行く必要なんかない。
でも本当に美味しいものに出会いたいなら、一度は訪れたほうが良いと思う場所。
絶対に損はしない場所。
僕にはこんな料理は到底作れるものではない。
僕には絶対に出来ないこと。
でもその志には感ずるものがある。
そして同じ志は持てる。
同じ志を持っていれば少しずつでも近付くことが出来るかもしれない。
近付くことだけでは何のオリジナリティも持てないが、まずは近付くこと。
そうしていつも高みを視て動いていれば、いつの日か自分のオリジナルな目標が定まってくるんじゃないかと思う。
志が店を作る。
以前レポートした山谷にある自家焙煎珈琲屋バッハ。
バッハでも志を感じた。
志のある店は居心地が良い。
周りがどんな場所であろうが、志を持っていれば進む道は決まってくる。
そして志の強さで、夢は実現できる。
ただただ腹が減っているときにこんな店に行くべきじゃない。
安くて満腹になる店でいい。
でも普段の生活の中にこんな非日常を感じさせる店があってもいいとおもう。

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