2006/5/29  21:37

ダヴィンチ・コード 見た。  diary

ようやく、ダヴィンチ・コードを見た!

これについて知らない人はいないので、一般的な説明はなしにして、一番問題となっている「面白いのか???」をテーマに話してみよう!ユウジのマニアック?路線で。

世界中で売れた小説。大物トム・ハンクス、その他豪華スター出演。ジャン・レノ、オドレイ・トトゥ、イアン・マッケラン。監督は長年ハリウッドで大作を作ってきたロン・ハワード。
こんなパッケージ。

さて、何でこれが面白くない!とか、カンヌで拍手が起こらなかったと報道され、おすぎがストーリー追いかけるのにいっぱいいっぱいでつまんない!というのか?

まず、映画という映像の文学は文字の文学「小説」とは別であることを理解しなければいけない。
小説は文字でストーリーを展開し、主人公の内面も文字で表すことができる。
しかし映像ではそうはいかない。
映画の基本的なルールとして映画では主人公の行動でストーリーを進めるべきであるというのがある。
例えば、主人公の身内が殺され、犯人を探すために冒険をし、その過程でキーマンと出会い、その人間的なやり取りがあり、あるアクシデントで一気に解決に向かう、というのが普通。
これを以前にも書いたナレーションでストーリーを説明してしまうと、誰がどうこうしたというのを「説明」していてまったく創造性もなければ、退屈するものである。
だからできるだけナレーションは避けるべきで、行動で展開していくのがいいのだ。

ところがこの原作は分厚い小説で内容は文字遊びといっては失礼だが、文字からヒントを得て、文字をころがして次へ繋げる。絵画を理論的に分析し、暗号を解く。
この暗号解きがメインであるのがやっかいだ。

前に「シービスケット」という映画があったが、この映画は是非見てほしい。いい映画だ。
これも分厚い小説だったが、題材は馬と人間のヒューマンなドラマ。それがメイン。だから映画としては題材がいい。
それをなくてはならないのだが部分部分を思い切ってカットし映画では使わなかった。
小説を映画にする場合にはそれが難しく、大切。
それでいて、そのカットした部分も見た人が想像の部分で仕上げてしまう作りにするのだ。
観客の想像性があって完成するように。
シービスケットではこれがうまくいっていた。

ところがダヴィンチ・コードは暗号解きがメイン。
人間関係はその後に来る。
暗号解きである部分をカットしてしまうと結論に至らない。観客が納得しないで置いていかれる。
そこで主人公2,3人が暗号解きの理論を全部?口で説明し、推論し、進めていってしまうのだ・・・・。
これはまずい。
観客はまったく興奮しない。
おかげでその他のシーン、例えば追跡されるシーンやアクションでもなぜか緊迫感を感じないまま過ぎてしまう。

またそれ以外、暗号解き以外のシーン、井戸に落ちた挿入シーンやポール・ベタニー演じる暗殺係の男のバックグラウンド1分は思い切ってカットして欲しかった。
井戸のエピソードは最終的に必要だけど、それは会話の中だけでいいかな。暗殺係のバックグラウンドも謎めいたままでもよかったのはないか?

「謎解きを口で説明」「カットしていない説明カットが多いこと」さらにこの壮大な謎解きを2時間半でやってしまうのに観客がついていけないことが拍手が起きなかった原因かもしれない。
となりに座っていたおじいさん寝てたし。疲れてただけかもしれないけど。

それとクリスチャンの人にとっては9割5分面白くない内容になっているのでそれもあるだろう。でもそれは言論の自由です。

これはすべて監督の責任になる。
でも考えると監督がかわいそう。これだけ売れた小説が映画にならないわけにはいかない昨今。誰かが映画にしなきゃいけない。しかも暗号解きといやっかいな代物。小説ではいいけど、映画では・・・。
というドデカイプレッシャーの中この監督はやったのです。
だからおすぎのように切って捨てるのは簡単だけど、褒めてあげたい気もした。

僕は敢えて小説は読まないで見たので、その内容を知っただけでも得るものはあったと思う。傑作ではないけど。





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