「名古屋の歴史と文化」のまとめをしていて、まだこの橦木倶楽部通信で取り上げていない題材がたくさんあることを再認識した。たとえば、朝日文左衛門や徳川宗春、建中寺や徳川園もまだまともには取り上げていない。堀川を下って熱田までを取材することもこの夏の課題だ。
しかし、まずは、橦木倶楽部の足下で記事にし残した話題をいくつか追ってみようと思う。
手始めは、この井元邸の創設者である「井元為三郎」氏からだ。江碕公朗『山吹の歩み』(昭和42年刊行)の記事をそのまま掲載しよう。
「陶磁器輸出の巨商 井元為三郎」
井元為三郎は、明治7年(1874)、熱田区中瀬町に生まれた。温厚な性格ながら、進取の気象に富み、陶磁器輸出に志した。はじめその業の先駆である田代商店に勤務し、神戸支店長になったが、同30年(1897)、飯田町2丁目27番地に井元商店を開き、輸出向陶磁器の売買業を自立創始した。
当初は、生地を瀬戸の製造業者より仕入れ、市内の絵付業者に絵付を依頼し、森村組やワンタイン社等に販売。その後、日露戦争の勝利とともに、陶磁器の輸出は著しく拡大したので、井元商店の発展も目覚ましく、同36年(1903)以降、橦木町3丁目に、倉庫店舗を新設した。
明治41年(1908)、名古屋港開港とともに社運いよいよ興隆、これに伴い、サンフランシスコトレーディング商会を設立し、直輸入を行うに至った。さらに、シンガポール、メダン、スラバヤ、バタビヤ等に支店や傍系会社を逐次設置。この海外発展に呼応して、昭和9年(1935)名古屋市北区指金町の2,500坪の土地に、工場・倉庫を建設した。
しかし、昭和16年(194)、大戦勃発とともに、閉業状態におち入り、海外店もすべて接収された。
この間、彼は、斯業の先輩として、同業者間の信頼を集め、名古屋商工同業者組合理事長、名古屋陶磁器輸出組合理事長等数多くの公職に就任、また、公益公共事業に尽粋することも多大であった。特にながく棣棠(やまぶき)小学校の教育会長をつとめ、その居宅が、同小学校の真前にあり、また子供好きの人でもあったので、児童たちにも親しまれた。戦前本校に学んだ人たちには思いで深い会長であった。
「幸福は我心にあり」を終世の標語として、この後を印刷した手帳を社員、棣棠小児童全員に配ったという逸話も残されている。
戦後、再度の活躍を期待されたが、昭和20年(1945)惜しくも逝去された。享年73歳であった。
昭和10年(1935)東芳野町の名古屋陶磁器会館内に、同業組合により銅像が建設された。戦時中、金属供出令により供出されたが、戦後再建され、陶磁器会館南側に残されている。
なお、井元為三郎氏の偉業は、「井元産業株式会社」として、今日まで受け継がれ、養嗣子松蔵氏が社長、松蔵氏長男啓太氏が常務となっている。
(なお、現当主は4代目の明正氏である。)

昭和8年の住宅地図

創業(明治36年)期の橦木町の井元商店

明治40年頃、井元商店店員(2列目中央、主人井元為三郎、その前に娘二人)

サンフランシスコの井元商店

戦前の名古屋陶磁器会館に建てられた井元為三郎立像
*写真は『名古屋陶業の百年』(名古屋陶磁器会館 昭和62年刊)より

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