詩人・春山行夫は、明治35年(1902)名古屋市東区主税町4丁目で生まれた(当時の主税町4丁目は鳥屋筋から東で長屋門のあるあたりまでだ)。
本名市橋渉。父辰二郎(宗助)、母みつの三男であった。先祖は犬山城築城以来、鎮守の神社の神職であった。明治維新後、父は名古屋の輪出用陶器の絵付けの草分けの一人になり、画期的な特許をとったという。
明治43年(1910)名古屋市立棣棠尋常小学校に入学。大正5年(1916)名古屋市立商業学校に入学。翌年、父が胃潰瘍で入院したため、商業学校を中退して家業を引き受け、夜は私立名古屋英語学校に通った。大正9年(1920)一家は土岐に移住するが、春夫は名古屋に残り、親類の世話で名古屋株式取引所に入社した。この会社では午後3時に退社することができ時間にゆとりがあり、文学や芸術に時間を割くことができたようだ。
この頃、近所に住んでいた年長の井口蕉花との交友が始まり、大正10年(1921)二人で詩の雑誌「赤い花」を創刊した。井口は、当時、「本間五丈原」の筆名で「文章世界」の十二秀才に選ばれていた。
大正11年(1922)井口蕉花、佐藤一英、高木斐瑳雄らとともにモダニズムの詩誌「青騎士」(せいきし)を創刊した。のちには近藤東も加わる。
この頃、隣町にいた画家松下春雄(1903-1933)と交友ができ、その友人の鬼頭鍋三郎らと「サンサシオン」という団体をつくり油絵を描くようになる(松下はのちに水彩で帝展特選となったが惜しくも30歳の若さで夭逝した。鬼頭は油絵画家として大成し、芸術院会員になる)。
「青騎士」と「サンサシオン」は地方における芸術運動の草分けであったが、大正13年(1924)井口蕉花が亡くなると、「青騎士」は蕉花追悼号をもって終刊となった。この年7月、春山行夫は、第一詩集『月の出る街』を上梓した。
同年に、松下春雄に誘われて上京し、ほとんど独学で英・仏語をマスターし、詩・文学・芸術・思想などについて考え続けた。
昭和3年(1928)教育書出版の厚生閣に入社するとともに季刊誌「詩と詩論」を創刊した。「詩と詩論」は、昭和7年(1932)「文学」と改題するが、増刊号を含めて発行された20冊を春山一人で編集した。「詩と詩論」は、瀧口修造の未完の詩論『詩と実在』をはじめ、西脇順三郎、上田敏雄、北園克衛らの論考が掲載され、日本へのシュールレアリズムの移植・定着に決定的な役割を果たした。
昭和4年(1929)春山は、詩集「植物の断面」を出版する。「詩と詩論」と併行で出版した「現代の芸術と批評」叢書の一冊で、この叢書は21冊を刊行している。この年、「改造」の文芸批評募集に応じ3位となった(1位は宮本顕治、2位は小林秀雄であった)。
昭和8年(1933)厚生閣を退社し、文筆生活に入る。昭和9年(1934)第一書房の依頼で雑誌「セルパン」の編集長となり、内容を政治・外交・経済・思想・芸術・海外文学の総合雑誌に改め、一世を風靡する雑誌を創るに至る。
しかし、戦時中は自由主義者としてブラックリストにのり、原稿依頼は皆無となった。
戦後は、昭和21年(1946)から2年間、NHKラジオ放送の「話の泉」に出演する。昭和29年(1954)には『花の文化史』を出版し、その後西洋のフォクロア・社会史・風俗史・博物誌などの研究に没頭した。『紅茶の文化史』『宝石』『エチケットの文化史』『ビール文化史』『西洋広告文化史』などの著書を残している。
最後に、若き日の詩人春山行夫の作品をいくつか載せておこう。
「故郷」
悔いと埃(ほこり)のなかにしづみ
独楽(こま)のように黙思する
けふ故郷(ふるさと)は寺のように懐かしい
こころは侘びしく鍬のように重い。
詩集『月の出る町』大正13年(1924)刊。
「日暦」
避けがたく激しい労役のあとに
新しい日の暦はかかげられて
かなしい絵のように眺められる
時のなかに私の鐘愛する未来の夢を眠らせよう
苦く稚ない暦は青葉のように揺れているけれど
籬(まがき)の下一面に落ち敷いた
冬花のこころのつめたさをいかにしよう
堪へがたい黄金のかがやきを汲めど
けふも苦渋は杯をみたしてしまう
今日の氷雨に新しい暦日は傾いている。
詩集『花花』昭和10年(1935)刊。

書斎で。戦後。
*参考資料「日本の詩歌25 北川冬彦・安西冬衛・北園克衛・春山行夫・竹中郁」中央公論社 昭和44年(1969)刊。

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