今、小津安二郎の「晩春」を市川昆がリメイクしたドラマを観ながらこの記事を書いている。小津安二郎の作品はいいなあ。「東京物語」「秋刀魚の味」「麦秋」・・・・・。
さて本題。夭折した画家というのは、なぜかこころ惹かれる存在である。未完のまま終わったという不完全性がいいのかなあ・・・。
若くして肺結核を患い病魔と闘いながら制作に励み、重要文化財「エロシェンコ氏の像」をはじめ「髑髏(どくろ)を持てる自画像」などの作品を残した中村彝(1887−1924)。
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http://black.ap.teacup.com/applet/syumoku/49/trackback
パリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描き、「郵便配達夫」や「広告(ヴェルダン)」などの作品を残しパリで30歳で客死した佐伯祐三(1898−1928)。
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http://plaza.rakuten.co.jp/ekatocato/64000
「 鉄橋付近 」や「Y市の橋」など都会の風景やそこに生きる人々を、理知的な画風で描きながら36歳で亡くなった松本 竣介(1912−1948)。
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http://www2.pref.shimane.jp/sam/ja/colle/colle_02_05.html
名古屋出身の画家では、30歳の若さで夭折した画家に松下春雄(1903-1933)がいる。
大正10年(1921)年上京し、本郷洋画研究所に学んだ。大正12年(1923)の関東大震災を被災して帰郷、鬼頭鍋三郎、中野安次郎らとともに美術研究グループ「サンサシオン」を組織し活動した。このグループに詩誌「青騎士」の春山行夫も加わっていた。
松下は、春山行夫を誘い、翌年再び上京した。この年の第5回帝展に水彩画が初入選し、以後15回展まで連続して入選した。第9回展からは油彩画を出品。第12回展では特選を受賞し、同年の「光風会」では会員に推挙されるなど中央画壇での活躍には目ざましいものがあった。
その一方で郷土・愛知との交流をはかり、一時期「愛知社」の同人として後進の育成にも尽力した。帝展を中心に活動を展開し、将来を嘱望されたが昭和8年(1933)30歳のとき白血病のため東京で夭折した。その翌年の第15回帝展では遺作が特選を受賞した。

「下落合文化村入口」1925年
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http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunka01/bunka01.htm

「赤い家の見える風景」1929年
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http://www.inoha.co.jp/ca1/ca12/1214.htm

「井口蕉花詩集」表紙絵。1929年
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http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/library/0i/iguchishouka.html

「二人のポーズ」愛知県美術館蔵 1933年 油彩、麻布 177.0×142.0cm
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http://www.aac.pref.aichi.jp/search/choice/search_choice30.html

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