佐藤一英や亀山巌の記事で登場した吉田一穂について記そう。私自身は、今まで彼の詩を読んだことはなかったが、今回はじめてその詩に触れて、初期の詩は「ああいいなあ」という率直な思いを持った。
「母」
あゝ麗(うる)しい距離(デスタンス)、
つねに遠のいてゆく風景・・・・
悲しみの彼方、母への、
捜(さぐ)り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。
「五月」
手に仄透(ほのす)く若葉さやかに影とその匂ひを乱し、
樹木灌典の愁ひすずろなる五月の雨。
プラタナスの並木ゆく麦稈帽(イタリアン・ハット)の淡い陽射し。
近眼鏡に絡(まつわ)る射翠しづかな舗石(ペブメント)の水の明るさ。
触感(タッチ)の金を散らす雨の緑のまた新しき沐浴(もくよく)の時、
若さ、麗しさ、わが肌に燻(く)ゆる莨(たばこ)の時。
詩集『海の聖母』(1926)より
吉田一穂は明治31年(1898)北海道上磯郡木古内(きこない)町字釜谷村の網元の家に生まれた。明治38年(1905)後志国古平町に移り、古平尋常高等小学校に入学。早くから和漢書に親しみ、少年期を過ごす。最初、船乗りに憧れるが、近視等の理由で次第に文学に興味を向けるようになる。
15歳の時、札幌の北海中学校を退学し、家人に内緒で北原白秋の「桐の花」を携えて上京し、東京の海城中学に入学。大正7年(1918)20歳の時、早稲田大学高等予科文科に入学した。このころから「一穂(いっすい)」を名乗る。級友に佐藤一英、横光利一らが居り親しく交わる。またボート部に入り、舵手として活躍した。
大正9年(1920)実家の火災により学資が途絶え、早稲田大学を退学した。以後、詩人・童話作家としての生涯を送ることになる。大正13年(1924)第一童話集『海の人形』を刊行。大正15年には(1926)第一詩集『海の聖母』を刊行(この装丁は亀山巌であった)。この年、金子光晴らと日本詩人会を創設した。
昭和3年(1928)春山行夫の『詩と詩論』の同人となる。昭和5年(1930)には、詩集『故園の書』を刊行。昭和7年(1932)佐藤一英、宍戸儀一らと、季刊詩誌『新詩論』を創刊。「ポー」「ランボー」「マラルメ」を特集し3号で廃刊となる。昭和11年(1936)には、詩集『稗子伝』を刊行。
戦後、『未来者』『羅甸薔薇』『吉田一穂詩集』の各詩集を刊行する。 昭和48年(1973)、東京にて76歳で永眠した。
参考資料 日本詩人全集26『吉田一穂・高橋新吉・小野十三郎』新潮社 昭和43年

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