佐分眞の資料を尾張旭市図書館で借りたとき、たまたまその隣にあった「一宮市博物館」発刊の『筧忠治』のカタログを手にした。A4版より少し大きい版の表紙全面に仁王のような迫力のある自画像が目に飛び込んできた。「なんだこれは!」という感じだった。
「一宮博物館」のカタログをデザインしているのは“嶋裕隆”という人だが、シンプルでそれゆえ斬新だ。表紙・裏表紙にはロゴが一切ない。質感を生で伝えようという迫力が伝わってくる。
今日は「一宮市博物館」に行ってみよう。ついでに佐藤一英の「万葉公園」や「三岸節子記念館」も訪れてみよう。
さて筧忠治(かけいちゅうじ)だ。
筧忠治は、明治41年(1908)愛知県中島郡萩原町東宮重(現一宮市)に生まれた。8歳で名古屋に転居して以来、平成16年(2004)96歳で亡くなるまで名古屋で生活し続けた。
8歳の時、現在の中区上前津に転居し、起尋常高等小学校から前津尋常小学校に転校した。大正9年(1920)東川端町(現中区栄4丁目)に転居。名古屋市立第3高等小学校に入学。翌年、父が急死した。
大正11年(1922)高等小学校を卒業し、武平町にあった愛知県測候所(現名古屋地方気象台)に勤務した。暮れにもらったボーナスで油絵具一式を購入し、独学で油彩画を始める。休みの日毎に鶴舞公園や覚王山に写生に行っているうちに、松下春雄に出会い、その誘いで「サンサシオン」の洋画研究所に通い始めた。
参考「松下春雄」*
http://gold.ap.teacup.com/syumoku/35.html
しかし、「サンサシオン」の研究所には勤務時間の関係で通い続けることができず辞し、栄町通りにあった鈴木不知の「名古屋洋画研究所」に通うようになった。
昭和2年(1927)田代町西畑(現千種区西坂町)に転居。鈴木不知の研究所を辞め、この頃から、自画像の制作を始める。以後、600点に及ぶ自画像を作成する。レンブラントの影響を受けつつ、独自の境域に達し、極度の精神集中の中で、すべての気合いを込めて描くため、その像は「仁王像」のような迫力を持つ作品群となった。
昭和5年(1930)からは、油彩画の「母の像」の制作を開始し、10年後の昭和15年(1940)母(継母)ひさが交通事故で死去するまで、一つのキャンバスの上に修正を加えていった。母の死とともに「母の像」の制作は終了する。10年もの間描き続けられたため、絵具の層は盛り上がり、所によっては厚みが数センチにも及ぶレリーフ状の作品となり、大きさも150号の巨大な作品となった。この作品は、戦後の昭和24年(1949)『虫眼鏡を持てる老母』(「母の像」)として「第3回中部日本美術展」に出品され、驚愕を持って注目を浴びることとなった。しかし、その後、ほとんど展覧会には出品せず、孤高のうちに自分の創作活動に邁進していった。
昭和43年(1968))名古屋気象台を定年退職する。昭和45年(1970)初めての個展を名古屋丸善ギャラリーで開催した。昭和49年(1974)頃から、エッチングを始め、猫を素材にした「ノラ」シリーズ、「ポニー」シリーズを始める。また、風景画や静物画も描き、西洋画の技術の上に、独特の東洋的価値観により、極めて精緻に、質感豊かに描いた作品を数多く残した。

自画像(1930)

自画像(1935) 生涯、絵を売らなかった筧だが、後に、板東玉三郎にどうしてもこの絵を欲しいと申し出られ、譲っている。(玉三郎の父にそっくりであったという。玉三郎は、この絵を見て精神的安定を得たという)

『虫眼鏡を持てる老母』 これが、10年間、夏の暑い時期を除いて、毎日2時間ずつ描き続けられた継母ひさの肖像画である。(1930-1940)

花(1972)

長良川(1977)

ノラ(1987)

左 17歳頃(1925頃)
右 愛知県測候所時代、20歳の頃(1928頃)

自宅アトリエにて自画像を描く。(2000、3,17)中島初男撮影。
*参考資料 一宮市博物館平成12年度秋季特別展 「筧忠治展」カタログ

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