夭折した画家佐分眞(さぶりまこと)のパリでの写真の中に荻須高徳(おぎすたかのり)が写っていた。佐分の方が荻須より3歳年長であり、東京芸大の卒業も佐分が大正11年(1922)、荻須が昭和2年(1927)であった。フランスには、同じ昭和2年(1927)に渡っている。写真は、パリ郊外で昭和4年頃(1929)撮影したものであった。
さて、荻須高徳である。明治34年(1901)愛知県中島郡井長谷村大字井堀(現・稲沢市井堀高見町)の地主の子として生まれる。明治41年(1908)千代田尋常高等小学校に入学。大正5年(1916)愛知県立第三中学校(現・県立津島高校)に入学。2年生の時、東京美術学校出身の大橋貞一が教諭として赴任した。この大橋教諭との出会いが、荻須の人生を決定づけた。
大正10年(1921)、東京在住の叔父治一の援助で上京、小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。大正11年(1922)には東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。同期生には小磯良平がいた。
昭和2年(1927)に同校を卒業すると、山口長男、大橋了介、横手貞美らと同じ 船でフランスに留学し、美校の先輩である佐伯祐三を訪ねている。その後、木内克、藤田嗣治らがいるパリ14区に居住した。この頃ユトリロの作品に感銘し影響を受ける。昭和3年(1928)2月、佐伯、山口、横手、大橋らとモラン写生旅行を行う。8月、ブルターニュ旅行中に佐伯の死を知り、急ぎパリに戻る。
荻須の画家としての最初の成功は、昭和3年(1928)のサロン・ドートンヌ入選であった。その後、ブラマンクに傾倒する。滞仏3年間で、荻須は、日課としてキャンヴァスの仕事に取り組み、20号大の作品約400点を制作したといわれる。荻須が敬愛した佐伯祐三の作品については、ユトリロの叙情とブラマンクの激情を自家薬籠中のものにしたものと指摘される。荻須のこの時期の作品は、佐伯祐三の強い影響下に絵画制作をしたことが判然としている。作品には、パリの街角、店先などを荒々しいタッチで描いたものが多い。
昭和9年(1934)最初の個展をジュネーブで開催した。この頃から、作風も佐伯の影響から少しずつ脱却し、穏やかなタッチで造形性に富んだ構成でパリの都市風景を描くようになる。「サロン・ドートンヌ」会員に推挙され、フランスでの地位を確立したかに見えたが、昭和15年(1940)に戦況悪化のため一時帰国を余儀なくされた。この時「サロン・ドートンヌ」出品作がパリ市の買上げとなった。帰国後は新制作派協会の会員となる。
終戦後の昭和23年(1948)日本人画家として戦後初めてフランス入国を許可され再び渡仏した。以後死ぬまでパリで制作活動を行うことになる。
昭和56年(1981)80歳の時、「文化功労者」に顕賞され、10年ぶりに帰国した。昭和57年(1982)には、「メダイユ・ド・ヴェルメイユ」を授与され、フランス国立造幣局において荻須高徳の肖像を浮彫にしたメダルが発行された。当時パリ市長だったシラク(後にフランス大統領)は「最もフランス的な日本人」と彼を評した。
昭和61年(1986)パリのアトリエで制作中に死去する。84歳であった。パリのモンマルトル墓地に葬られた。この年日本政府は、その功績に対し文化勲章を授与した。
*荻須記念美術館
http://www.city.inazawa.aichi.jp/midokoro/ogu_02.html

左 佐分眞とパリで。
右 晩年の荻須
稲沢市の荻須記念美術館。
立派な美術館である。地方がまだ余裕のある時代に建てられたのであろう。稲沢市民は素晴らしい施設を後世に残したと思う。最近の文化行政の流れを見ると何となく文化切り捨ての傾向が感じられる。百年先、千年先に思いを致して、文化を創造し、文化遺産を残すという志を持ち続けたいものである。

常設展 展示室の様子。(パンフレットより)

復元されたパリのアトリエ。2階から覗いた様子。(パンフレットより)

「洗濯場」1977 呉市立美術館蔵

「ムフタール街」1932 荻須記念美術館蔵

「街角(グルネル)」1929-30 荻須記念美術館蔵

パリを撮り続けた写真家ウジェーヌ・アジェ(1857-1927) 荻須がパリに行く前にパリの街角に魅了された写真家がいた。

「船と葡萄」のしるしのある居酒屋 アルバレート通りとムフタール通りの角(1900)

キュヴィエの泉(1899)

野菜を売る家と売り台 ルーアン(1907?)
*参考「パリ・風景の記憶−アジェの写真とオギスの絵画」1997 荻須記念美術館刊

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