東桜コミュニティ・センターの前あたりに警備の警官が何人もいたので、中国領事館はこの辺かなと思っていたらそのとおりだった。その一角の真裏(東側)に「へちま薬師」として有名な東充寺があった。門前に赤い大きな幟がはためいているのですぐにわかる。門をくぐったすぐ右手の薬師堂の前には、その名の通り奉納されたヘチマがびっしりと天井から吊り下げられている。賽銭箱の上にも手水屋の方にもはみ出してこの薬師さんへの信仰が厚いことがわかる。
疝気(せんき)を病む人に霊験があるといわれ、ヘチマを供えて平癒を祈る民間信仰だ。疝気とは、かつて下腹部の病全般を指した。疝痛を伴う寄生虫症や、胃腸潰瘍、胆石、リウマチ、婦人の子宮病や、脱腸、幼児のヒステリー(癇の虫)なども含まれる。ヘチマの生長はことに速く、生命力の漲りを感じさせ、誰にも栽培できたようだ。食用にも鑑賞用にもなり、実を食べたり、干してたわしに使ったりする。ヘチマの茎を切り、滲み出てくる果汁はヘチマ水と呼ばれ、化粧水や利尿薬、咳止めとして民間で広く用いられてきた。そういえば、子供の頃にヘチマのたわしで体をごしごしこすり洗った覚えがある。
薬師堂の壁面には、相撲の小錦の奉納した額が掲げられている。小錦が足を痛めたとき東充寺に詣り、ヘチマで患部をなでて病気平癒を祈願した。見事快復し、次の場所で優勝したお礼の額だとのこと。
ヘチマによる加持祈祷の由来は、東充寺初代住職・温空上人が、托鉢の途中で激しい疝気に見舞われ難渋した際、薬師如来のご加護を一心に念じたところ、夢に老僧が現れて、秘法を授けられたということに始まる。温空上人は疝気から回復し、この秘法を衆人にために施すようになったというのが縁起である。なお現在の薬師堂は嘉永7(1854)年の建立である。
「仏法山東充寺」は、京都の粟生光明寺派の浄土宗の末寺である。慶長の「清須越し」に際し、清洲からこの地に移った。この地域は東寺町と呼ばれ、飯田街道(駿河街道)沿いの防衛の拠点地であった。大建築と広大な境内の軍事的意義から城下防衛の意味をもたせたものである。城南は万松寺などの南寺町50ヶ寺(中区大須)で熱田口を、城東は東寺町(東区東桜)40ヶ寺が駿河街道(平針街道)の守りを固めた。

小錦の奉納額

天明四年(1784)の刻銘がある聖観音の石仏

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