橦木倶楽部通信第5輯

橦木倶楽部を拠点に、文化のみち全域のネットワークづくりを目指します。

 
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投稿者:グルメ歴史ファン
 うどんは公家さんが中国から持ち込んだのが定説で、京都を中心に伝播したのが一般的な見方。一方、蕎麦は縄文文化圏が強く残った地域で、おおむねフォッサマグナの以東がその領域である。しかし不思議なのは、出雲(島根県東部)と伯耆(鳥取県西部)の国は飛び地のように蕎麦の文化圏であるのがモータリゼーションが起こる前の食生活統計の調査で出ている。
 出雲と伯耆ときいて古事記を思い浮かべる方は碩学である。そうこれは国産み・神産みの女神、イザナミ神の墓所(島根県安来市の比婆山)があると古事記には記されている。この符合は偶然なのか?
それではつまらない。この分布は弥生時代に栄え、古墳の先取りをした四隅突出墳丘墓の日本海側の分布と符合するからだ。太平洋側にはまったくなかった高度な世界が当時は日本海側に広がっていた。
 そこで私は思うのだ。縄文期の文化と融合した渡来人が古代出雲で、それと違う流れの渡来人が西日本に流入し始め、古代日本を作ったのだと。だからこそ日本神話が天皇にそれほど都合のよいことでない出雲をなかなか消せなかったのだと。それが日本の文化のいいところでもある。基本は正直なのだ。
 弥生時代になると、アメリカ映画の西部劇のようなもので、縄文的人々は東部へ東部へとおしやられていく。そのなかで、最後まで最西の出雲は残ったし、西日本系の政権は、軍事的ではなく文化的進行に切り替えたので、昭和時代までこのような食文化の分布図が残ったのではないだろうか。
 どうして縄文的弥生人は出雲を死守したかったのか?答えは出雲大社を含め、松江、安来などの場所に残る、考古学、神社巡りなどを行うことが必要だと思い、退職後の大きな観光計画となっている。

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