杉本彩が
日本舞踊に初挑戦したそうですが、杉本といえば何といっても、ウリナリで肋骨を骨折しながらもハードな社交ダンスをこなした体育会系ど根性が強く印象に残っているわけで、今度はぜひとも、骨折するほどに激しい日舞を見せてもらいたいと思っている昨今、皆様いかがお過ごしでしょうか。
ということで、ここのところテレビ等でよく目にするのが限界集落という言葉。自分は昔、自転車で峠越えなどをやっていたので、奥多摩とか秩父の山奥のことなら少しは分かります。以下に暴論承知であえて思うところを少々。
まずエコロジー(生態学)的観点からいうと、この問題って結局、太平洋の東岸の島においてホモサピエンスという種の繁殖力が低下した結果、生息域が縮小しつつあるということに他ならず、ある意味、自然の摂理なわけです。それに逆らってまで、多大な税金を投入して「限界集落」を維持する意味はあるのだろうかと思ってしまいます。
次に投資的観点から。近代以前においては、山を分け入ってでも、杉を植えたり米を作るすることが富をもたらした。だからこそ、多くの村が開墾されていった、と。要するに、リターンを求めて造林だったり米作だったりといったセクターに、財や労働力を投資していったということです。で、近年はそのセクターがかつてのような富を生まなくなった。だったら、そのようなセクターの「生産拠点」としての「限界集落」は閉鎖するのが当然なのでは。
「そこでの暮らしはどうなる?」なんて反論が聞こえてきそうですが、陳腐化した製品にすがり付いている企業は、どんな分野でも容赦なく倒産するわけです。で、その際には、その企業に付随していたはずのコミュニティだとか文化だとか、まぁゲマインシャフト的なものはすべて霧散解消を余儀なくされるわけで。で、50過ぎのおっさんでも、新しい会社で新しい仕事を、以前より厳しい条件でこなさなければならない、なんていうのが普通なわけです。でも、それは、労働力の投資先を間違ったために生じた結果であり、すべては自己責任。失業保険と生活保護以外の救いの手はありません。
限界集落も全く同じ。要は、米だったり杉だったりの長期的な相場を見誤った人たちに、生活保護以上のセーフガードを差し伸べる必要があるのか、ということ。陳腐化した製品の生産拠点にすがりついている少数者のために、一人当たりで見ると多大な税金を投下してまで社会資本を整備する必要はあるのか、ということ。もし、米相場、杉相場での失敗を社会的に補填してくれるというのなら、株や外貨で相場を見誤った人たちにも救いの手を差し伸べないと、公平な社会とは呼べなくなってしまうのではないか、などと思ってしまうでのありましたとさ。

0